私小説は書けんけども

ある日、母が。

最近、「みうらじゅんのサブカルジェッター」というラジオ番組がYouTubeで聞けたのだけど、
ゲストの人の年表を見ながら振り返って、若い頃の経験が、
どういう風に作家人生とか、アーティスト性に影響したかを考察するっていうのが面白かったので
自分の人生もなんか振り返ってみようかなーと思ったんだけど
僕の人生以上に、母親の人生があまりに無茶苦茶すぎて、
そこそこ楽しめるかもしれないし、僕の中でもやもやを消化できるかもとおもって
今回は僕の母をテーマでちょっと書いてみました。
みうら先生によれば自分の個人情報をバンバン流出させちゃうのが青春とのことなので
結構具体名が出てきますけど、まぁ記憶力自体が弱ってるのでそんな気にせんでください。

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 母は、恋愛依存症で薬物依存に統合失調症と完全に病んでいた人物で、小学生だった僕に買ってくれた漫画というとつげ義春の短編集ややらますむらひろしの猫マンガで、本棚の記憶も「玲瓏」の並んだ段とか寺山修司の詩集や宇野亜喜良の絵が印象深い。典型的なアングラ系女子だったんじゃないかなと思います。子供に「詩人の血」(コクトー監督した前衛映画)とか見せるような親なんているかしら。あと、遠藤周作が好きでキリスト教にもハマってた。僕も母に言われるがまま、土曜日は友達と遊ぶでもなく隣町のカトリックの教会学校に行って外国人の子供たちと並んでキリストの言葉を学んだ。ネギとチューリップに囲まれた田舎町で、学校に行けばテレビの話以外に話題などなかったけど、テレビは禁止されていた。

僕には話の合う友達なんかいなかったけど、母も同じだったようだ。

話は少し遡るんだけど、元々出身が東京の赤坂育ちの母が何故埼玉の田舎町に住んでいたかというと、これまた面倒な理由がある。
事の発端は母が僕の母になる前の20代の頃まで遡る。当時、それこそ塚本邦雄の結社に顔を出すような母だったが、なぜかは知らないけどSさんと言う真面目だけどバツイチ子持ちのサラリーマン男性と結婚したそうだ、彼の転勤について行って北海道に引っ越した。しかし、実の息子でもない子供達をどう育てるべきかもさっぱりわからず持て余し育児に苦労したのか、文通相手だった俳句仲間のYさんの方に徐々に心が傾き、彼も彼で母を救うヒーローのつもりで北海道まで来てしまい、そのまま埼玉の長瀞へ引っ越したとか。長瀞、秩父、小川あたりは実は金子兜太を始め俳人、歌人、絵本作家が点在しているので、母にとってはここでの生活は楽しかったようだ。そして、Yさん結婚して僕を産んだ。しかし、二人目の子供ができた頃には夫婦仲は冷え切り、今度はYさんの同僚だった吉井さんと知り合い、またそちらに心傾き離婚、再婚。しかし、吉井さんは私の父のYさんとはまるで思想が異なっていた。Yさんは熱心な共産党支持者で趣味は俳句とアマチュア無線と山歩き。吉井さんは、カラオケとアクション映画とマンガが大好きで宗教にも政治にも政治にも興味なし、趣味はパチンコと映画鑑賞。
その吉井さんとの結婚を機にネギとチューリップの街、深谷市に引っ越したのだ。

 アングラ友達とは縁を切りつつマイルドヤンキー的な垢抜けない文化や趣味を全く受け入れられず、私の母はここから次第に孤独と社交性に挟まれてい精神的にキケンな領域へと移りはじめた。
 深谷での吉井さんとの生活がはじまってから精神疾患が発症するまでも振り返って見ようかと思うが、この辺りは僕の記憶に基づくのでどこまで正しいかは分からないが、頑張って記憶を掘り起こす所存。
 たしか深谷に引っ越したのは小学校一年生の夏だったと思う。夏休みに算数セットの細かい道具の一個一個まで名字を書き換える作業が結構辛かったんだ。とはいえ引越し後の生活はしばらくは楽しかった!吉井さんは主張もない分しばらく割とうまくいって、僕とはまるで顔が違ったけど弟もできた。そして、何よりいろんな映画のことを教えてくれたので、実の父ではないけど本当にいろいろ影響を受けまくった時期だった。しかし、そんな吉井さんもやはり母とうまくいかずに、僕が中学生に上がった頃には離婚した。いま思うと、深谷に来てからのこの数年はイジメや夫婦喧嘩はあったけど、僕の人生では珍しい平穏な時期だったと思う。
 そして吉井さんと離婚後の母は明らかに浮いていて孤独で、どんどん壊れていっていた。
 まず、元々子供任せなところのあった家事をより一層子供任せにしていった、いわゆるネグレクト。また仕事をしていた時もあったけど、何故かその仕事も通勤中に事故ったり、揉めたりと、うまくはいっていなかったようで、二進も三進もいかず仕事にも溢れていた。なので生活保護と祖父母からの多少の仕送りが救いだった。よく言われたのは、「民生委員が見張ってるから贅沢は無理よ」...という言葉。
しかし、家事を誰もまともにやらないものだから、結果勉強よりも料理なんかを重視していたりしたので元々勉強の苦手だった僕は学年で最下位の成績に、こりゃ公立高校は無理じゃねーかって事で、あわてて中3から家庭教師をつけてもらいました。そしたらまあ家庭教師はやっぱり凄い!一気に中の中程度まで成績は上がったので喜ばしい...はずが、実はこの家庭教師のときにも一波乱。先に書いているけども母は重度の恋愛依存症で男をとっかえひっかえしてて、当時付き合っていたのは電気工事士で家庭持ちのKさん。実は、このKさんと繋がるはずもない家庭教師のトライから偶然我が家に派遣されてきた女子大生が叔父と姪の関係であると判明(ちなみに判明させてしまったのは僕のせいらしい)。そして、この偶然によって母はより一層疑り深くなり、家からも出なくなった。部屋を片付けるでもなく、何か作品作りに没頭したり、末っ子で甘やかられ暴れる弟に手を焼いたりしていた。僕の頃は僕の事を蹴り飛ばして病院送りへした元気は何処へやら(暴力も育児放棄も児童虐待には変わりないんだけど)。家から出ない生活のせいか体調も常に良くなかったようで、いつからか毎日毎日パブロンやらルルとかのドラッグストアで買える医薬品を濫用して、たまにドラッグストアの薬剤師に不審がられた。そして、僕が高校に入ると、明らかに精神的に異常をきたしており、誰ともうまくいかなかったのか、また吉井さんと再婚した。ただそこから病状がよくなるどころか、全く改善せず、当たり前の事を指摘されると深夜にも関わらず大声を出したり、泣き喚いたりしていた。困り果てて、僕が祖父母にその事を電話で報告し祖母と叔母が深谷に来たときには、離れざまに駅前で奇声を上げていたとか。いくら埼玉県で人が少ないとはいえ常人ではない!
 そして、遂に病院に行ってみるとやはり精神疾患で、一緒には暮らせないという結論に至り、母は祖父母の家へ移ってったが、そこでも問題がありすぎたので、半ば強引に精神病院に入院し、その母の帰郷からは弟は祖母の家の近くの小学校に転校し、僕の三者面談には叔母さんが来てくれたという記憶がある。しかし、しばらくしたら母は深谷に戻ってきた。後になって聞いた事だが、親子ほど離れた若い入院患者の男性とベッドにいるところを見つけられた為の矯正退院だったそうだ。たしか、この時のぼくは18歳だったと思うので祖母は気を使ってその話をしなかったのだろうけど、気の使い方がなんとも中途半端な気がする。
そして今となれば当然だが、治ってなかったにも関わらず急に家庭に戻ったところで、それはやっぱり普通に暮らせるわけもなく、僕ら一家はドンドンおかしな方向へ向かっていた。いつからかクラスの問題児になっていた妹は遂に家出した。家出先は父子家庭で育児放棄の家庭にあったO宅だった。(鍵っ子とか育児放棄してる家庭の家は溜まり場になりやすい)すると、そこに妹を迎えに行ったはずの母は戻ってこなくなり、戻ってきたかと思うと、吉井さんと離婚しOさんと再婚するらしい事を目下計画中であると教えてくれた。飛躍しすぎて訳がわからなかった。しかし当時は僕も高校を卒業し映像編集の仕事をやっていたので、そんな事どうでもいいやと思っていたが、ある日夜勤から帰ると、母は弟と妹を連れて本当に居なくなっていた。吉井さんはあまりの身勝手さに困惑していた。吉井さんからしてみれば実の息子は不在で昔の同僚の息子との二人暮らしという、てんでおかしな生活だった。また、これはその後わかった事なのだが母は勝手に貯金を全部引き出し、これまた勝手に印鑑を使い離婚届を勝手に提出していたらしい。
その後、ぼくは勤め先の事務所がなくなるとのことで、東京支部に行くことになった。


一家のその後の顛末も少し書こう。
まず、妹はそのO宅を飛び出し行方を眩ましたかと思うと、見つかった後は暫く叔母の家に引き取られるが、見知らぬ土地の私立高校に通うが、そこも飛び出して群馬のヤンキー少年の家に住み着き暫く仲良く暮らしていたようだ、いまは春日部で立派に仕事をして一人暮らしだとか。
弟は吉井さんに引き取られ、暫く高校へ行っていたけど登校拒否になり退学。とりあえずニートからフリーターになったとかで、頑張ってるのかも。唯一深谷に残ってる。
母は、Oさんと喧嘩したとかなんだか理由があるみたいで深谷あたりの精神病棟に自分の意思で入院したとか。その後の事は僕も叔母も祖母も知らない。昨年祖父が亡くなったけど、とんでもない人が現れると思うと怖くて怖くて、葬儀には誰も母のことは呼ばず...なんだか寂しいものだなぁ。
 僕はというと、深谷を離れしばし祖母にしばらくお世話になった後、川崎で一人暮らしをはじめ、そこからはブラック企業どころではない映像制作の会社を転々とし鬱になってしまって、名古屋にいた彼女の家に転がり込んだり別れたり、今は名古屋で一人暮らし。

 そういえば僕が川崎で一人暮らしを始めて暫くした頃、なんだか理由は忘れたんだけど、必要になって休みの日に戸籍謄本を取りに深谷市役所へ行くと本籍地が変わっているとかで、その日は結局戸籍謄本をもらえなかった。かつて一家が暮らした小さな借家には誰もいないのかと思うと寂しくなった。その日は当時の恋人と一緒だったのだけど、市役所から駅への帰り道で泣いてしまったのを覚えている。もちろん戸籍謄本を取れなかった悔しさで泣いてるわけじゃなくて、本当に悲しくなってしまったの。それからしばらく僕にとっての実家は何処なのだろうとか、家族ってなんだろうとか、いろいろ思ったけど、とりあえず実家に関しては聞かれることがあるといまは緊急連絡先にも使う祖母の家という事にしている。

 苗字も定まらない幼少期、家庭の無茶苦茶だった思春期、実家というものがなくなった青年期。もう何も信じられないと確信し、母の口癖を思い出す。
「《絶対》なんてものはない」


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ひとまず、今日は終了です。


あああーーーー
長くなってごめんなさい!すみません!失礼いたしました!
読んでくれた方、もしいたらありがとうございました。
おつかれさまです。

書きながら思い出した映画↓

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